ドイツ連邦議会議事堂(Reichstag Building)は、
ドイツの首都
ベルリンの中枢であるミッテ地区にある観光名所です。
ベルリン中央駅からほど近く、
ベルリン観光の目玉でもあるブランデンブルク門(Brandenburger Tor)からも徒歩圏内というアクセスの良さから、観光客に人気のスポットです。
1871年(明治3年)から1945年(昭和20年)まで続いた統一
ドイツ国の
ドイツ帝国議会(Reichstag des Deutschen Kaiserreichs)は、当初決まった建物をもたず既存の建物を転々としながら開催されていたのだそうです。やがて現在の共和国広場ちかくに国会議事堂の建設が計画され、コンペによって建築家ルートヴィヒ・ボーンステット(Ludwig Bohnstedt)の案が選出されました。
ところが、巨額の建設費に対する皇帝や首相ら首脳陣からの反対や土地買収の問題などのトラブルに見舞われ、最初の建設計画は頓挫しています。
ドイツ帝国議会があらためて買収予定地を決めたのは10年後の1881年(明治14年)のことで、翌年には新たに設計コンペが行われました。189件の応募の中から、今度は幸運な建築家パウル・ヴァロット(Paul Wallot)の案が採用されました。
現在地への建設が決まった
ドイツ連邦議会議事堂は、当時の最先端技術を結集したガラスのドームをもつルネッサンス様式の国会議事堂で、1884年に始まった工事は、10年もの工期を経て1894年(明治27年)に竣工しました。細密な彫刻が施されたペディメントの下には「dem deutsch volke(ドイツ国民)」の文字が刻まれています。
ドイツ連邦議会議事堂は、1918年(大正7年)の
ドイツ革命で議会制民主主義・ワイマール共和国の成立が宣言されたことでも知られる歴史的なスポットです。のちの1933年(昭和8年)には、おそらく世界でもっとも有名な
ドイツの政治家であるアドルフ・ヒトラー( Adolf Hitler)が首相に就任しています。
ヒトラーの首相就任からわずかひと月後の1933年2月に起きた
ドイツ連邦議会議事堂の放火事件(Reichstagsbrand)は、ヒトラーが国会権力を掌握して独裁国家へと突き進むきっかけとして、古くから戦争映画でも取り上げられています。犯人はすぐに捕まり、犯行の動機を資本主義への抗議と主張しました。政治警察も単独犯による犯行と結論付けましたが、ヒトラーは事件を最大限に利用し、言論統制や共産主義の排除に成功しました。
第二次世界大戦後の東西
ドイツ分断で、旧西
ドイツの首都に
ドイツ連邦議会議場(Bundeshaus)が建設されたため廃墟となった
ドイツ連邦議会議事堂は、1964年に一部が修復されてミュージアムとして利用されていました。1990年(平成2年)の
ドイツ再統一では盛大な式典や統一
ドイツ議会が開かれました。
首都機能が
ベルリンに戻されると、
ドイツ連邦議会議事堂は1992年のコンペで優勝した
イギリス人建築家ノーマン・フォスター(Norman Foster)の設計で修復されました。
ベルリン市街を一望するドームの展望台や現代風のオフィスなど、まるでSF映画のような斬新なインテリアと重厚な歴史的建築物が融合したデザインは見応えがあります。議場の真上に位置するドームは太陽の動きに連動し、直射日光を遮るしくみです。
ドイツ屈指の歴史的観光スポット「ドイツ連邦議会議事堂」をご紹介しました。ドーム内に張り巡らされた二重らせん状の通路や随所に配置された現代美術など、入場無料で見どころ豊富な人気スポットです。
ベルリン観光の際はぜひ立ち寄ってみてください。
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